ムーミンと自然~ガーデナーに通ずる世界観~|前編
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偏屈、我がまま、いじわる。でも愛すべきムーミンの住人たち
さて、ムーミンです。まあるく可愛い姿。ほっこりとする物語。多くの人がムーミン作品に対してそのようなイメージを抱くのではないでしょうか。
でも、実は原作である小説版ムーミンは、読めば読むほど奥が深く、哲学的であり、生き方や、自分自身の在り方を突きつけてきて、ただの癒しの物語とは異なります。
個性的な仲間たちは、気のいい子たちばかりではありません。それどころか、ちょっといじわるだったり、偏屈だったり、高慢だったり……。現実社会では、トラブルのもとになりそうな人間関係?も、ムーミンたちは、互いの個性を寛容に受け入れて、あくまで楽しくあろうとします。
例えば小説版ムーミンで、哲学者であるじゃこうねずみがハンモックに寝転がって本を読もうとした時のこと。古くなっていたハンモックのひもが切れて、じゃこうねずみはドスン!と土の上に落ちてしまいます。
「ゆるしがたいことじゃ」
じゃこうねずみはそう叫びました。哲学者たる賢い自分が、ハンモックから落ちるなんてこっけいな事態に遭遇したこと、そして近くでたばこの苗に水やりをしていたムーミンパパにそれを見られた恥ずかしさに激怒して、誰とも会うことのない、どうくつのなかで暮らすと言いだすのです。
小説「楽しいムーミン一家」より
ね?なんて偏屈なんでしょう。実際にこのような人が身近にいたら、大抵の人は眉をひそめて敬遠すると思いますが、ムーミンパパは1日に2回の食事を届ける約束をするばかりか、「なにか家具もおとどけしますか?」とたずねるのです。
それからじゃこうねずみは本と毛布をもってほらあなへと向かい、ムーミンパパはほっと息をついて、たばこ苗に水をやる仕事にかかります。そうしているとじきにすべてを忘れるのです。
隣人とのトラブルを柔軟に受け入れ、植物へ水やりすることで、トラブルを忘れる。なんだかとっても人間臭いエピソードですし、植物のお世話に夢中になって雑念を忘れるところなどは、ガーデナーからすると「はい、分かります!」と言いたくなる描写です。ムーミンの物語には、こうした他者や自然との関係が、たくさん描かれています。
むき出しの自然のなかで生まれた理想の物語
原作者のトーベ・ヤンソンはフィンランドのヘルシンキ生まれのスウェーデン系フィンランド人。画家、小説家、ファンタジー作家、児童文学作家とたくさんの顔を持ち、また、父は彫刻家、母はグラフィックアーティストという芸術一家で、幼いころから芸術が隣にある環境で育ちました。
そんなトーベが夏の間暮らしたのは、ヘルシンキから船で30分ほどのクルーブハルという離れ小島。いえ、島というにはあまりにもごつごつと岩肌がむきだしのワイルドな無人の岩礁帯でした。ガスも電気も通っておらず、あるのは過酷な自然と自分だけ。いやがおうにも自然と向き合う環境だったのです。
トーベはそこでパートナーと共に過ごしました。
なぜ、そのような不便な島で過ごしたのでしょう?
これは想像の域を超えませんが、トーベがムーミンの物語を書き始めたのは第二次世界大戦のさなかでした。そんな大変な時期に(だからこそ?)、理想のおとぎ話=ムーミンが生まれたのです。 また、自身の中にもその時代下では生きづらさを持っていたトーベは、ある意味隠匿する気持ちで、人や社会から断絶した島に身を置いたのかもしれません。
話は脱線しますが、自然の脅威や不便さがあってもなお、植物と触れ合いたい、自分だけの温室で社会のあれやこれやを一時忘れて植物と向き合い没頭したいという気持ちは、今のガーデナーにも通ずるとことがありそうですね。
さて、話を戻します。理想のおとぎ話といっても、白馬の王子様が現れ、辛い現実から連れ去ってくれる物語ではありません。自分の孤独や他者との軋轢が、矢のように毎日降りそそぐ中を、知恵と工夫、寛容な心とユーモアで受け入れ、本当の幸せとは何なのかを考えさせられる物語です。
それを象徴するのが「The door is always open」--ムーミン80周年のテーマです。
和訳すると「ドアは、いつでも開いていますよ」。ムーミンママは家のドアに鍵をかけずに誰でも迎え入れてもてなそうとします。迎え入れられた方も、どこかに所属する喜びに満たされ、仲間になっていきます。
この「所属する喜び」、何かに似ていませんか?
こじつけかもしれませんが、園芸を楽しむ仲間と共にあること(=所属すること)にもつながりそうです。LOVEGREEENでもムーミンママにならってドアに鍵をかけず、植物を愛するすべての人に扉を開いておける存在になりたいと感じる哲学でした。
後編へ続く。
※記事中の画像/引用文出典元:小説『たのしいムーミン一家』ムーミン全集[新版] /作・絵:トーベ・ヤンソン 訳:山室 静 講談社 刊